肝心のモナスですが、
塔の下に行くのに入場料、
塔の上に行くのに別途展望台入場料が発生します。
入口で係員が座っているエリアの中の一人が
「日本人ですか」と話しかけてきます。
「塔の上に上がるには1時間待たなくてはなりません。
こっちからはすぐ上がることができます」と
何やら怪しいオファーがありました。
「いくらですか」と聞くと「15万ルピア(1,500円)」と回答。
当初は時間がないので上へ行くのは諦めていましたが、
1,500円ですぐに上れて
ジャカルタが一望できるなら得られるものも大きいだろう。
また係員がいる有料エリアにいる人なので
変なこともしないだろうと判断し、ついていくことにしました。
話を詳しく聞いていると
彼は係員ではなくバイクタクシーの運転手兼ガイドで、
デヴィ夫人を2回案内したとか。
詐欺師なら証拠になる写真を撮らせないだろうと思い、
「記念に写真を」と打診するとすんなりOK。
上がるには最優先で、説明は流石にガイドらしく、
「あそこのヘリポートの後ろがデヴィ夫人が住んでいたところで、
彼女は毎月インドネシアから〇〇万円もらっています。
インドネシアの物価は日々上がっていて、
来年はルピアがドルに変わるかも知れません。
あのガンビル駅の線路は当初路面にあったのですが、
事故が多発したので日本の間組が線路を上に作り直したんです」とそれなりに。
帰りたくなったらいつでも言ってくださいと融通も利き、
時間を有効活用できたので良かったです。
その後は、時間があれば彼おすすめの
インドネシアの多様性が実感できる公園
「タマン・ミニ・インドネシア・インダー」でも行きたいところでしたが、
ちょっと遠いので、予定通りコタへとトランスジャカルタで向かいます。
オランダ植民地時代の建物が残るコタは、
今までのジャカルタの雰囲気とはちょっと違っていました。
ここで、「地球の歩き方」よりジャカルタとコタの説明を・・・
もともとこの地はスンダ・クラバと呼ばれる小さな港だった。
マラッカ(マレーシア)に交易で栄えたイスラム王国が誕生すると、
それに影響されてインドネシアの沿岸部は
次第にイスラム今日に改宗されていく。
そして、イスラム教勢力がこの港を手に入れると
ジャヤカルタ(偉大な勝利)と改称された。
その後、オランダが東インド会社の拠点を現在のコタ地区におくと、
ジャヤカルタはバタビヤと改称され、
インドネシア植民地の中心となり急速に発展した。
日本軍の占領によって
ジャヤカルタの名に近い名のジャカルタに改称され、
現在はアジア最大の都市に発展している。
北部のコタ地区周辺では、
オランダ東インド会社が繁栄した名残を、
歴史的な建物や運河で今も見ることができる。
インドネシアが世界一の親日国なのはこういう背景があったのでした。
コタ駅はインドネシアのジャカルタ市の中心部に位置しており
KRLジャボタベック全線の列車と
ジャワ島各地への長距離列車の始発駅となっている鉄道駅です。
しばし散策した後は、
本日最後の目的地であるジャカルタの秋葉原と言われる
マンガ・ドゥア・モールへと徒歩で向かいます。
いくつかのビルからなり、
電気製品のみならず、衣料品関係もあります。
人も多く、活気が凄かったです。
フードコートもあります。
イカンバカール(焼き魚)、
ライス、スープ付きで350円くらいだったような・・・
昨日と本日の疲れが出てきたようでフラフラしていたところ、
マッサージ20分50円と女性から手招きされたので渡りに船と承諾。
何でも日本のマッサージ機器販売会社JMGが機器を売るための
体験コーナーでした。
機器の購入は何度となく勧められたもののの、
持って行けないので却下。
マッサージ自体は結局無料でした。
コタの夜は治安が悪いと聞いていたので、
これにてタクシーでホテルに戻り、
ジャカルタでの最終日を終えたのでした。